大津波により東北沿岸がかつてない被害に
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生。地震が引き起こした津波に襲われ、東北の沿岸部は壊滅的被害を負いました。
私たち港湾建設会社としては特に、防波堤の損壊、ケーソンの流出等々、考えられぬ光景に驚きました。
その後には東北の港湾建設会社も津波により多数が流されてしまった、という話も耳に入ってきました。1日も早い復旧が望まれていながらも難しい状況でした。
港湾土木技術を生かすべく、女川に飛ぶ
震災から1年経ち、お付き合いのある大手建設会社の東北支店から地元の港湾建設会社を紹介して頂き、社長自ら現地の会社との話し合いに臨みました。
「圧倒的に人手が足りません!」
女川漁港はまだまだ手付かずの状況で、震災後にテレビで見た光景とあまり変わっていません。
2012年8月、漁港の再建設のため、たにもと建設は得意とする港湾土木技術で応えることに。
まずは仙台に営業所を設置。漁港に足を何度も運び、急いで今後の計画を立てました。けれど、東北は初めて工事を行う場所。慣れない土地ということもあり、思いもよらない問題が浮上したのです。
横浜とは何もかもが違う! 次々とやってくるトラブル
まず、大変だったのは作業現場と寮が離れていたこと。震災復旧のために既に全国から技術者が集中していた事もあり、現場より遠い場所にしか入居できる住居がなかったのです。
しかも冬期は雪で路面が凍結。運転速度が落ち、何か所も通行止めになるため道路は渋滞。女川漁港に向かう途中の橋は滑って登れなくなるなど通勤に時間がかかりました。雪で交通機関がストップするのは年に1~2回あるかないかの横浜では考えられないことです。
また、復旧工事が集中したために石材、生コンクリート、アスファルト等の資材の需要が多く、入手が困難に。クローラクレーン、バックホウ等の重機のリースほか、ハウスや倉庫等も想定以上に揃わない状況です。ふだんなら発注して2~3日後には手に入るものが、いつ来るのか不確定。値段も高騰しています。
「資材はいつ揃うのだろうか」
「工期に間に合うだろうか」
気持ちが焦る中、横浜でお世話になっていたリース会社が東北にあると分かりました。たまたま懇意にしている営業の方の力を借りられたため、敷鉄板等は順調に入手。今まで積み重ねてきた人間関係に助けられました。
次の問題は人手不足。被災地ではとにかく作業員が足りません。給与形態も横浜や東京と違い、費用が高くつくことも分かりました。
ようやく人員が確保できても互いに初めて組む相手なので、意志疎通にもひと苦労。横浜では知り合いの作業員も多く、打ち合わせを含め仕事はすんなりと進んでいくことが多かったため、余計に大変さを感じました。
ひとつひとつ誠実に取り組む中、運よく他で工期を終えた作業員を紹介してもらえることもあり、少しずつ流れに乗り始めました。
本社にSOSメール。大切なのは「人」だった。
そんな中、本社に突然SOSメール。
「現場はまとまりがなくなり、空中分解直前」
驚いた本社社員が原因を調査。すると、工事事務所では全員が現場に出る必要に迫られ、全体を見渡せる指揮官がいないと判明。土地も人も流通経路もすべて初めての東北では、誰か1人が府かん的に眺め指示を与える必要があったのです。
幸いなことに以前東北地方で仕事をした事が有る経験豊かな熟練の技術社員がいました。
「東北に行き、現場をまとめてくれ!」
社長のひと声を粋に感じ、二つ返事で、女川へ向かってくれました。彼は客観的に全体を把握し、担当者ごとに的確にアドバイス。その甲斐があって、それぞれが役割を理解し、現場はうまく回り始めました。
しかし、もう1点の課題が浮上。それは工事の依頼をくださった東北の港湾建設会社の方との距離感。物理的に遠いことが影響したのか、双方が心理的にも遠さを感じていました。
今度は営業社員が女川へ飛び、建設会社の方と腹を割って話すこと数時間。ざっくばらんに話し合ったことが功を奏し、互いに信頼し合う関係が構築できました。
仕事は単に工事をすればよいというものではなく、ともに仕事をする方との信頼関係が重要。信頼が深ければ深いほど、いろんな点で物事がスムーズに進み、結果的にはよい仕事につながります。ここから工事完遂に向けて、一気に走り始めました。
美しい漁港が復活。新しい絆はこれからも続く
2014年3月、女川漁港が完成。美しい漁港が復活しました。
「ああ、終わったなあ」
「工期内に完成できた!」
「皆のおかげだ」
「関わった全員に感謝ですね」
全員から安堵の溜息。漁師の方も、ようやく女川漁港で仕事が始められます。
周囲の工区は工期内に終わらなかったところも多かった中、この復旧工事は工期内に完成。工事の品質、期限内の竣工、さらに、東北の建設会社の方との深い絆により引き続き東北地方での工事を請け負うことになりました。